答えの無い場所に答えを作ること。

「○○についてグループで一番を決めてください」って何がしたいかわからない - 遥か彼方の彼方から
答えないものに答えを与える事、そして、それを複数人で決定する事。それは、人生そのものだと思います。
決定しなかった一例から、色々と考えてみたいと思います。

ある集団の失敗。

ある所に、複数人でゲームを作ろうとした人達が居ました。
彼らは、普段から仲もよく、一人で作るよりも簡単に出来ると思っていました。
まず最初に、ゲームのジャンルを決める所からはじめました。
彼らは最初、好き勝手に作ってみたいゲームのジャンルを出し合いました。
ジャンルは見事にバラバラ。その後、何とか一つのジャンルに定まりましたが、ジャンルを決めるだけでも随分と時間がかかってしまいました。
次にゲームのシステムを考え始めました。これがいい、あれがいい、数ヶ月アイディアを出し合った後に、アイディアがまとまらないまま作るのを諦めてしまいました。

彼らは何故失敗したのか

それはもちろん、決めるべき事を現実的な時間で決める事が出来なかったからです。
彼らの決めるべき事に正解はあったのでしょうか?
きっと、正解と言えるものはないでしょう。
じゃあ、決めないでよかったのでしょうか?
このケースの場合、決めなくても大きな問題にはならなかったでしょう(本人たちにとってどうだったかは、本人たちにしか知りえませんが…)。
社会に出たらどうでしょうか?会社やプロジェクト、チームでどんな方針を採るか?これらは決めなければ、社会活動をなすことは出来ず、複数人で何かを決定する事は、社会活動の第一歩ともいえるのかもしれません。

生きる事は決断の連続だ

この言葉は、某ゲームのCMで流れたフレーズですが、事実だと思います。
学校で出てくる問題と違って、唯一の回答なんてない所から、自分がいいと思う事を決断していくわけです。その中には、一人で考えればいいものばかりではなく、複数人で考えなければいけないものも少なからずあるはずです。会社に入れば、複数人で決めることの方が多いでしょう。
その中では、自分が押し通した方がよさそうな時もあるし、人にあわせたほうがよさそうな時もあります。グループで決める中にも個人の決断が含まれるわけです。
更には、納得するため或いは納得させるためどんな論理を展開するか、どんな方法ならばこの人は納得しそうかといった戦略までも含まれるかもしれません。
授業に疑問を持って記事を書くのも、ブログの記事を見て反応するのも、選択の一つです。その選択の結果、道が少しづつ出来る。逃げ続けた人にすら、逃げ続けたなりの道のりがあります。
意識無意識に関わらず、今居る場所は自分の選択が多少なりとも含まれているはずです。
ベストのない所から、自分の道を決める。これは生き物の宿命なのではないかと思います。

一番じゃないとわかっていても選ばなければいけない

大事なのは一番を選ぶことでも、自分の意見を無理矢理通すのでもなく、何が今自分たちにとって最適解に近い解に思えるかを決められることです。
人の事は言えませんが、最善を求めるがゆえに何も出来ないのでは意味が無いのです。決定が遅れれば、多大な損害を被ることもある。
だからと言って、自分の選択が本当にいいのか、決めた後でも悩む事は少なからずあるでしょう。
あとで一番じゃないと分かることもあるでしょう。
それでも、何かをなすために決断し続けるのが私たちの義務だと思います。
私たちはベストの解を見つけ続けることなんて出来ない。しかし、常によい方向へ持っていく努力をするべきである。